見えるものだけが「努力」じゃない時代に
「奥さん、昔は頑張ってたよね。」
先日、ある社長さんからかけられたひと言。
気遣いのつもりかもしれないし、
ただの雑談のひとつかもしれない。
それでも私の胸には、妙に刺さった。
「昔は?」
「じゃあ今は?」
「頑張っていないように見えるのかしら?」
思い返せば、確かにあの頃の私は泥まみれだった。
毎日が綱渡りで、
息をつく暇もなかった。
身体も心もギリギリの状態で、
それでも立ち止まれず、
ただ突き進んでいた。
「頑張っている」とは、
あんなふうに
苦しそうにしていることを指すのだろうか?
もしそうなら、
静かに自分を見つめる今の私は、
もう「頑張っていない人」なのだろうか?
コロナという出来事を境に、
自分の道を見極め直す機会が幾度も訪れた。
コロナが過ぎ去った後の世界もまた、
予想を裏切る連続だ。
いい意味でも、悪い意味でも。
だからこそ、これまでの昭和的な価値観
「とにかく歯を食いしばって走り続けろ」
「弱音を吐くな、立ち止まるな」
といったやり方では通用しない瞬間がある。
根性論だけでは、たどり着けない場所がある。
時代が変わったのではなく、
世界の質そのものが
変わってしまったのだと感じている。
今、もし社長さんの言葉を私が言い換えるなら、
「静かに、自分の輪郭を描き直し、
走るよりデジタルデトックスしながら、
自分というブランドの方向性を再設計するために
いったん心のOSをアップデートをしている。」
と言ったところだろうか。
それは「怠け」でも「逃げ」でもない。
時代に対する静かでしなやかな「戦術」だと思っている。
たとえば、学校にも行かず
部屋にひきこもって朝から晩まで
ゲームをしている子どもたち。
あの子たちは「製糞機」だと揶揄されるがそうじゃない。
彼らなりに、自分という存在の居場所や
意味を必死に模索している。
それだって立派な
「努力」の一つの形だと思う。
「見える場所、優秀な大学、会社で輝く人だけが、
頑張っているわけじゃない。」
引きこもりを持つ親御さんは
本当に心折れるくらい大変だけども、
そう思って希望を見失わないで欲しい。
だから、あの日の社長さんの言葉に
今更ながら私はこう返したい。
「ええ、昔も頑張っていました。
でも今も、ちゃんと頑張っています。
SNS映えはしないけれど、
ワインリストをパソコンで作っている時、
朝、小田切ヒロさんのYouTube動画見ながら
最新のメイクしてる時、
フォームローラーで骨盤整えている時・・・。
たまに自分にだけ聞こえる声で
「大丈夫」とつぶやきながら、
誰も見ていないところで静かに格闘してます。」とね。
今日も、自分を信じて
静かに立っているすべての人へ。
誰が見ていなくても、
その在り方には、きっと意味がある。
焦らなくていい。
見えない努力だって、
ちゃんと、世界のどこかに届いている。
そう、これからは「静かな努力」が主役になる時代。
私は、そう信じたいのです。
愛を込めて
マダム悠華
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