お客様は神様──とは限らない

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野生の芍薬

「お客様は神様です」。
この言葉が初めて世に出たのは、
演歌歌手・三波春夫さんが舞台で心を込めて歌う際に
「神に捧げるような心持ちで臨む」
という意味で発した言葉だったらしいです。

本来は、とても静かで
個人的な想いだったはずのこの言葉が
それがいつしか、サービス業の隅々にまで浸透し、
「どんな無理な要求にも応えるべきだ」という
極端な風潮まで生み出すようになりました。

かつてはその考えが当たり前でしたが
今では、世代交代が進み
時代が移り変わり、
店側は何でも我慢しろと言うお考えのお客様は
減ってきています。

むしろ、カスハラと扱われ社会問題にさえされている。

よく考えてみれば、「神様かどうか」を決めるのは、
常に私たち「もてなす側」。

つまり、「お客様を神様と思って接するかどうか」は、
あくまでこちら側の「覚悟」や「美意識」の問題。

お客様自身が「私は神様なのだから」と
振る舞うことを許す言葉ではないと思っています。

 

お店を営んでいると、
心から気持ちのよいお客様に出会うことがあります。

目が合えば微笑み、
何をテーブルに提供しても
「有り難う」とその都度、
感謝してくださり
美味しいと喜び
お皿が下げやすいように整えてくださり
また来るねと喜んでお帰りになる。

礼を尽くし、
料理や空間に敬意を払ってくださる方に出会ったとき
自然と「神様のようだな」と思える瞬間があります。

けれど同時に、
現実には、いろんな方がいらっしゃいます。

横柄な態度で命令のように注文し、
美味しい、楽しい、嬉しいは、一言も発せず
ご不満があるときだけ声が大きくなり、
喜んだ様子もないまま帰る方もいる。

納得しなかったことは真摯に受け止めますが
こちらとしては丁寧に最後まで、
誠実にお迎えしたつもりでも、
その想いが届くとは限りません。

どちらが「正しい」ということではありません。
が、
だからこそ私は、
「お客様は神様」だと声高に
言うことはしたくない。

思うとしたら、それは私の心の中で、
ひそかに思うことです。

私は「そう思いたくなる人に出会えた日」に、
誰にも見えなくても、
自分の心の中にだけそっと灯る光に
喜びを噛み締める。
そんな日の夜は、
ひとりでがこぼれることもあります。

 

それは商売上の「前提」ではなく、
「予期せぬ贈り物」のようなもの。
お客様と店側がお互いに敬意を持ち、
心と心がふと通い合ったときにだけ、
その言葉はほんのりと意味を持つと思っています。

お客様は神様、そう思うのはこちらの勝手。

そして、「神様のような人」に出会った日は、
お店をやっていてよかったなと、
しみじみ思える日でもあります。

 

決して悪口ではありませんが、
これは事実ですので、
誰かを特定されないように記します。

 

以前、若い夫婦が小さな飲食店を営んでいました。
活気があり、若い人たちに愛されていたお店でした。

ところが、ある日。
都から地元に戻ってきた中年の夫婦が現れ、
その若い経営者に、
都会の飲食店事情を
アドバイスも求めていないのに語りはじめ、
やがて、彼らはその若い店を
自分たちのサンドバッグ
にしていったと聞きました。

その店は、まもなく静かに幕を閉じました。

聞いてもいない「ありがたいアドバイス」に、
心をすり減らし、
若い店主はこの街を去りました。

その話を聞き、私は思いました。

私たち飲食店は、
料理と空間の対価しかいただいていない。

そこに込められた知識、時間、経験、覚悟
それらを超えてぶつけられる私怨や虚栄、
都でこぼれた自尊心の埋め合わせを、
この場所に落としていくべきではないと。

心の吐口の対価は、
私たちは受け取っていないのです。

 

もし、それでも誰かを痛めつけたいのなら
どうか、そういう場所へ行ってください。
(鞭やろうそく、罵声で痛めつけたり痛めつけられるクラブもあるようです。
お悩み聞きますサロンはだいたい1時間¥20000〜くらいが相場だとか・・・。)

飲食店は、そういうための店ではないのですから。

静かな空間に、
料理や飲み物を通して心を通わせる場。

神様と呼ぶかどうかは、
私の胸の内だけにそっと灯しておきたい。

それが私なりの、
「お客様は神様」に対する美意識です。

あなたには、どう届いたでしょうか?

 

 

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